
2025年5月
佐竹悠良(さたけ ひろなが)教授就任祝賀会の報告
佐竹悠良先生は2004年に兵庫医大を卒業、小生とはラグビー部所属との縁があった。数年前のOB戦・アフターファンクションで出会い、その際関西医大がんセンターの学長特命准教授を務めていることがわかりアカデミックに活躍する後輩の存在に、とても嬉しい気分になったことを覚えている。
そして2021年高知大学教授就任のニュースがOB会メーリングで流れ、一期生の松本學先輩をはじめ皆でおおいに喜んだ。しばらくはコロナもあり満を持しての2025年3月8日、ホテルオークラでお祝いの会が開催された。
祝賀会には、高知大学医療学講座教授、医学部長先生をはじめ京大、国立がん研究センター、大阪医療センター、そして香川大学の腫瘍内科から同志の先生方が、仲間の慶事を我がことのように喜んでおられる様子が伝わり、次々の祝辞が実に誇らしかった。
涙道の病診連携でいつもお世話になっている尼崎総合医療センター眼科部長で涙道研究の第一人者である宮崎千歌先生は高知大学の出身だが、佐竹先生の教授就任の後に、母校を訪れ“とても素晴らしい人事を実行された”とコメントを添え記念写真を送付くださった。
この日、彼が最後の挨拶で「前職の関西医大でもぼっちから、高知に来てもぼっちから始まった」とまっすぐに語り決して平坦な道のりではなかったことを述べた。なにかが準備されているわけではなく、ひとつひとつ種を植え、水を撒く作業を続けたのである。孤独に強い人だ。
佐竹先生は新臨床研修医制度の下、卒後神戸中央市民病院等で医師人生を開始、経験を積み、多くの出会いの扉を開きながら現在地に立っている。医局制度というどちらかというとムラ社会を過ごし今年60歳を迎える自分からすると、佐竹先生のみならず、多くの後輩達の国内、国外いろんな場所での活躍にはとてつもない輝きを感じている。
はためくgreen flagの下、次世代、次世代へと力が繋がれ、発展する緑樹会の未来を夢想している。
写真左. 左から佳菜子先生(兵医2002年卒)、保科、佐竹教授、次女郁美さん
写真右. 兵医の同窓生らと
平成3年卒 保科 幸次

2025年4月
常盤の一本松
南北を山手幹線とJR線に挟まれた区域です。ここに「常盤の一本松」と呼ばれる松が天高く生えています。このあたりがかつての武庫郡と莵原郡の境界であったとも伝わります。河川が郡の境界であるにふさわしいとするなら、ひょっとすると、昔はこの辺りが夙川の流路だったのかもしれません。
旧西国街道(概ね国道171号線)は、京都から南西に下って来て、中央運動公園の付近で南に折れ、そのまま南下していきます(現在の国道171号線の南下部よりすこし東側)。常盤の一本松は、西国街道の膝部の向こう側に位置します。西国街道を旅する旅人にとっての目印だったのかもしれません。
この常盤の一本松、住宅地の一角にあり、知らなければ通り過ぎてしまうようなものです。お地蔵さんが祀られていたりします。何が有名かと言うと、谷崎潤一郎の「細雪」に出てくるのです。『あのマンボウを通り抜けて、一本松の所まで行って見たら、云々』という箇所です。確かに、南側から歩いて北上すると、阪神西宮駅の西側から国道2号線を渡り、小さなトンネル、いわゆる平松町「マンボウ」でJR線を潜り抜けます。そこから少し北に行くと常盤の一本松です。マンボウがあるということは、ここが南北に流れる用水路だったということであり、夙川の旧流路であるという話にも可能性が出てきます。
変哲も無い一本松ですが、マンボウとセットにして散策すると、気分は「細雪」で結構おもしろいかもしれません。
平成2年卒 児玉 岳

2025年3月
いくつになってもドラムすめ
平成8年卒の石原(旧姓辻村)真紀と申します。この度、岡山先生から寄稿依頼がありました。
私は卒業後、実家がある和歌山県で研修や勤務をし、主人(石原広章:平成10年卒)と結婚してから京都に移りました。現在は主人の実家である、京都市伏見区の医療法人石原クリニックで、主人と一緒に働いています。
主人と私は、在学中は軽音楽部に在籍し、主人はギター、私はドラムをやっていました。今もお互いに音楽に携わっています。昨年12月29日には、久しぶりに主人と一緒にバンドを組んでライブをやりました。ジャンルはポップロックで、すべて主人のオリジナル曲です。写真はその時の様子です。
(夫婦ともに、大学時代より痩せました!)
音楽に関して意見がぶつかることもありますが、趣味を理解してもらえるのはすごく助かっています。
身近なところで訃報や闘病中の話を聞くようになりました。昨年は、同期の先生の訃報も…。あと、私には20代の頃から腰椎椎間板ヘルニアがあり、今はごくたまに痛みが出るぐらいですが、いつ症状が悪化したままの状態になるかわからないぐらいに狭小化しています。(悪化した時は、橘教授はじめ、整形外科の諸先生方、よろしくお願い申し上げます)
なので、動けるうちにやりたいことをやろう、と数年前から思うようになりました。今はBon JoviやPERSONZ、SHOW-YAなど、色々なコピーバンドを掛け持ちでやるようになり、昨年はライブを6本こなしました。今年もすでに2本決まっています。次回のライブは4月19日、京都祇園SILVER WINGSで行います。
あとは、ゴルフを始めたり、甲子園球場まで阪神タイガースの応援に行ったり、富士山に登ったり、娘の影響でSnowManにはまったり。大学時代とは打って変わってアクティブになりました。大学時代をやり直したいぐらい•••いや、試験はもうこりごりだし、お金もなかったから、やっぱりいいです(苦笑)
昨年のM-1で2連覇した令和ロマンさんが言っていた「やらない後悔より、やって大成功」をモットーに、これからもできる範囲で色々なことにチャレンジしていきたいと思います。緑樹会の皆様もお忙しいとは思いますが、日々を楽しくお過ごしください。年齢制限のないものは、何歳からでも始められます。ただし無理のないよう、「できる範囲で」が大切です。ドラムや音楽にご興味がある方はご一報ください。
コラムでは今後も、医療に関する内容はもちろんのこと、皆様の趣味や興味のあることについて熱く語られた内容が拝見できるのを楽しみにしています。
平成8年卒 石原 真紀

2025年2月
幻のマジックショー
令和4年卒の笠野泰佑(カサノ タイスケ)と申します。初期研修2年間を当大学病院で終え、今年度からは当大学消化管内科で専攻医として所属させていただいております。スーパーローテートの初期研修とは打って変わり、より専門的な知識と内視鏡手技の習得が必要で、医師としての責任もより大きくなったことを実感した一年でした。これからも身を引き締めて日々の診療と研鑽に取り組んで行く所存です。
さて私事ですが、先日開催された橘俊哉先生の整形外科主任教授就任祝賀会に参加させていただきました。同会は同窓会も兼ねており、100名近いOB・OGの先生方の前で余興としてマジックを披露させていただきました。この素晴らしい場に巡り会うことになったきっかけは、今から6年前に遡ります。
当時私はまだ大学4回生で、マジックサークル(通称マジ研)に所属していました。趣味の延長の手品を部員同士で見せ合うという、何とも地味で陰気な活動内容ではありましたが、それなりに練習して学内で不定期にショーは開催していました。ショーといっても観客は同学年の友人数名のみで、新歓や学祭を除き部員以外にマジックを見せる機会が非常に少ないというのが当時の悩みの種でした。今思えば完全に若気の至りですが、私は少しでも場数を踏むため一時期駅前で通行人に対してマジックを披露していました。物珍しさから足を止めてくれる方はちらほら居られましたが、人だかりを作れるほどの技量や話術は私にはありませんでした。とにかく大人数の前で披露できる場はそれほど貴重なものだったのです。
そんな私に、保科 幸次 先生が声をかけて下さいました。橘先生の教授就任に当たって祝賀会を開くから余興でマジックショーをやってくれないか、と。これは願ってもないチャンスで、二つ返事で引き受けさせていただきました。これまでにない大舞台に向け、打ち合わせ・ネタ作り・練習でマジ研は加熱していました。一つの大きな目標に向けて様々なアイデアを出し合う部員たち。地味で陰気なサークルの空気は、あの時確かに青春の風に吹かれて消えていたと思います。
しかしその直後、2019年12月末から始まったコロナ禍によってマジックショーは中止となってしまうのでした。3密の回避や飲み会・会食の禁止が全国で推し進められ、橘先生の祝賀会も当然延期となりました。残り2年の学生生活への影響も大きく、対面授業や病棟実習、部活動や渡航の制限などは少しずつ緩和されて行きましたが、卒業までついに完全に解禁されることはありませんでした。Zoomでモニター越しにマジックをしたのを最後に、私のマジ研部員としての活動は幕を閉じました。
時は流れ昨年11月、もはや幻のように感じていた祝賀会の再開と、マジ研へのオファーを再び保科先生が持ち掛けてくださいました。
胸が躍りました。すぐにかつての部員たちに卒業以来の連絡を取り、ショーへの参加を募ったところ全員快諾してくれました。事前のリハーサルでは、久しぶりの演技にもかかわらず全員仕上がっており、学生時代の不完全燃焼を取り戻すかのように生き生きとした表情をしていました。
そしてついに迎えた祝賀会当日。私は何としても盛り上げてやるぞという使命感で壇上へ上がりましたが、それは全く無用なものでした。乾杯の挨拶から会場はすでに大いに盛り上がっており、どこを見渡しても会話に花が咲いていました。何か現象を起こすたびに皆様が拍手と笑顔を送って下さるので演者的には非常にやりやすく、終始アットホームな暖かい空気で会場は包まれておりました。最後まで暖かく見守って下さった会場の皆様に、改めて心より御礼申し上げます。ありがとうございました。
マジ研は現在部活動に昇格して、マジック以外にもジャグリングのパフォーマンスを取り入れ更なる進化を遂げているようです。
忘年会、新年会、懇親会等でご用命があれば是非、現役マジ研部員たちに披露の場を提供してあげてください。
令和4年卒 笠野 泰佑

2025年1月
鳴尾の一本松
某番組にあやかって、「ぶらこだま」と称して、ちょっとした歴史的スポットなどを散策しています。樋之池町のN先生の御命名です。
鳴尾駅、いまでは「鳴尾・武庫川女子大前」駅となったのですが、そこには松の絵が掲げられています。実は、駅のすぐ北側、里中町の住宅街の一角にひっそりと「鳴尾の一本松」という名跡があるのです。駅から北側に歩くこと数分もかからず、某眼科医院の裏手のひっそりとした公園、その名も一本松公園です。その名の通り、一本の松が植えられています。
能の「高砂」に『高砂や この浦舟に帆を上げて 月もろともに出汐の 波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて はや住之江に着きにけり」という謡の一節があります。わざわざここに「鳴尾」の地名が出てきます。船の航行に、よほどの目印があったのでしょうか。それが鳴尾の一本松ではなかったかとされます。いまでこそ鳴尾の浜、いわゆる鳴尾浜は埋め立てによりはるか南側になってしまいましたが、かつては鳴尾駅からほど遠くないところが海岸線だったのでしょう。月日の流れは、埋め立てられた海岸線に在った「リゾ鳴尾浜」すら廃墟としてしまっています。
鳴尾の一本松は古くから多くの歌人にもうたわれたようで、かの西行法師も「つねよりも秋になるおの松風は わきて身にしむ物にぞありける」と謳っています。有名な歌枕だったのです。晴れていれば、西は須磨の一の谷、東は天王山・生駒まで一本松を観ることが出来たのだということです。武庫平野の一大ランドマークだったのでしょう。いま植えられている松は5代目だということです。松の木は住宅地に囲まれて、どこからも見えませんが、また大きく高く伸びてほしいものです。
平成2年卒 児玉 岳

2024年12月
はじめまして
平成27年卒の都井政和(トイ マサカズ)と申します。この度、緑樹会のコラムを初めて執筆させていただきます。私は現在、当大
学整形外科教室に所属しておりますが、2024年4月よりアメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコにあるカリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)で基礎研究を行っています。この留学の機会をいただけたのは、橘教授や圓尾先生をはじめ、多くの先生方のご尽力のおかげです。心より感謝申し上げます。
日本では脊椎手術を専門としており、基礎研究では脊髄損傷後の神経障害性疼痛について研究しておりました。アメリカでは、骨折痛や骨折治癒過程における神経回路を中心に研究を行っています。このラボには神経系の研究者がおらず、一からのスタートとなり大変ですが、他の神経系ラボに質問に行ったり、試薬をいただいたりしながら、何とか研究を進めています。
アメリカでの生活はすべてにおいて刺激的です。普段は社交的な方だと思っているのですが、こちらでは「シャイボーイ」として認識されています。また、ネイティブではないため、アメリカでの生活には相当なストレスも感じています。渡米してからの2週間、シリアルと間違えてドッグフードを食べていたこともありました。アメリカのシリアルがこんなにも不味く、ゴムに近い食感なのかと驚きました。また、日本の素晴らしさも再認識させられています。日本人は皆さん繊細で器用ですし、手術技術はもちろん、食文化も世界トップクラスだと感じます。
今後も現在の研究を通じて、患者様に満足していただける医療に貢献できるよう努めてまいります。今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。このような機会を与えてくださった岡山先生をはじめ、事務局の皆様に感謝申し上げます。
平成27年卒 都井 政和

2024年11月
2028年・緑樹会50周年がやってきます!
親愛なる緑樹会の紳士淑女の皆さま、お元気でお過ごしのことと存じます。
我らが母校・兵庫医科大学は2022年開学50周年を通過、次の50年へ100周年へと向け、その歩みを進めています。緑樹会は一期生卒業と同時に設立、きたる2028年が50周年の節目となります。
緑樹会理事会では50周年に向け準備に入りました。大江与喜子先生を実行委員長に、記念式典・事業の相談を行っており、核となる記念式典は2028年(令和10年)7月8日(土)に予定しております!皆様におかれましてはスマホ、手帳に今からチェックいただければ幸いです。(笑)更には、好評のシンボルマークに50周年を込めたmodified logoの作成、緑樹会主催市民公開講座など計画されています。
6月緑西会総会。挨拶にたたれた大江先生は「同窓といえども、多少意見が異なったり極端には反目しあう関係の人間関係もあることでしょう、だったとしても同窓会として何か行動を起こしたり、要求したり、勝負どころでは一致団結しなければなりません」と述べられました。また先日参加した研究会で東大から来られた講演者の先生が最後のスライドで2027年に東大創立150周年とありました。緑樹会が誕生した時点で森村茂樹先生の過ごされた、かの学府は既に100年の時間を過ごしてきたことが分かり、なかなか追いつけないなあとあらためて実感した次第です。(笑)
我々の50年。優しくゆったりと流れてきています。煌めくGreen flagの下、我々もここ一番で一致団結、皆で肩を組む、そのような風景を願い、そしてその気運づくりこそが緑樹会の存在理由と考えています。
平成3年卒 保科 幸次

2024年10月
シングリッシュはつらいよ
この夏、久々にパスポートを取得し、海外旅行でシンガポールに行きました。シンガポールは極端にICT化され、入国前から管理されています。パスポートナンバーと携帯番号で登録されているのです。スマート国家構想だかなんだか、そういう意味ではとても治安が良いのですが、何処に居てもネットが被さっているんだろうな、管理されているんだろうなあ…という気持ち悪さはあります。
それはともかく、ちょっと困ったのは言葉でした。シンガポールは基本的に英語だし、なんとかなるかなあと思っていたのですが。ところが聞き取りにくいのです。たしかに、日本語ですら聞き取れないことの多い僕ですから、やむを得ないところはあるのですが、それにしても聞き取れないのはショックでした。「What time?」みたいな基本的な単語が聞き取れないのです。ホテルのフロントで困りました。スマホの翻訳機能が大変に便利でした。お互いにスマホをかざしてコミュニケーションを取る姿も未来的で面白いのかもしれません。そういう意味でも、シンガポールではスマホは必需品でした。
この聞き取りにくさ、英語の様で英語でない言葉…。シンガポールのイングリッシュで「シングリッシュ」と呼ばれるようですね。マレー系・チャイナ系などが人口の多くを占めるシンガポールで独自に発達(?)した英語のようです。これを思えば、フィリピンの英語は大阪弁みたいなイントネーションで聞き取りやすかったなあ。
そのシングリッシュですが、たとえば、①語尾の子音が抜けて省略されるし、長音も省略されます。「Ticket」は「チケッ」、「Don’t walk」は「ドンウオッ」って感じでしょうか。②文末に「lah」(ラー)を付ける。大阪弁の「~やねん」みたいなものなのかもしれません。「OK,lah」(OKだよ)とか言うようです。③疑問文に「meh」(マ)を付ける。「You like meh?」(君は(これが)好きか?)とか。人によっては「ラー」とか「マ?」とかばっかり言ってる印象です。気になりだすと気になってしょうがありません。
ホテルのチェックインの際のことです。フロントのスタッフが「わたみ」、「わたみ」って言うんです。「わたみ」がどうした。たしかにシンガポールには「ニトリ」も「スシロー」もあるけれど。じれたそのフロントの人はスマホをかざして、日本語翻訳を見せてきました。そう、そこには簡単に「何時?」と。つまり「What time?」ってことですよね…。「What time?」が聞き取れないのかあ…、そりゃもう落ち込みまして、しゃべる気が失せました。
後でよくよく考えると、「What time meh?」って言ってたんだろうなあ。それが子音の省略で「ワッ・タイ・マ」となり、音便化して「わたみ」に聞こえたのでしょうか。まさか、シンガポールで某外食産業の名を聞くとは思いませんでした。シングリッシュも奥が深いのです。
平成2年卒 児玉 岳

2024年8月
ペインクリニックと帯状疱疹-第3稿-
帯状疱疹ワクチン
帯状疱疹ワクチンには、シングリックス(不活化ワクチン)と弱毒性水痘ワクチン(生ワクチン)があります。テレビのCMで紹介しているのはシングリックスを発売している会社です。シングリックスのメリットは95%を越える高い発症予防効果と約10年という予防期間の長さです。弱毒性ワクチンの発症予防効果は50%前後で予防期間が約5年のため、有効性の差は明らかです。費用負担額は、前者が20000~25000円を2回接種するため計4-50000円、後者は6000~7000円を1回と費用の差は明らかですが、重症の帯状疱疹後神経痛の患者を多数診療してきた経験から私はシングリックスを勧めるようにしています。免疫力が低下している(帯状疱疹を発症しやすい)患者にも使用できることも重要と考えています。
ワクチン接種を勧めている患者:
臓器移植後や自己免疫疾患等で免疫抑制剤を内服している患者全般、糖尿病患者、ヘルペス関連痛で私の外来に紹介された患者の配偶者等です。私自身は70才で接種をするつもりでしたが、2020年に米国の調査で新型コロナウイルスの感染後は50才以上の帯状疱疹発症リスクを高めること報告されたことを今回知り、60才(来年)で接種するか検討中です。5類に変更後の新型コロナウイルス感染者数は未知になっているが相当多いことは容易に推察できますので、感染の既往者には説明しようと考えています。
帯状疱疹の再発率は低いですが終生免疫は得られませんので、免疫機能の低下、ストレスが強い患者や発症後の期間が長くなるほど再発しやすくなりますので、初感染時に痛み治療に難渋した患者や帯状疱疹後神経痛が残ってしまった患者には、ざっくり5-10年経過を目処でワクチン接種を勧めています。(なんの根拠もありませんが)
説明しておくべきポイント
① ワクチン接種が可能な病院又はクリニックは?→住民票のある自治体(市区町村)で確認できる。
② 自治体によって格差はありますが助成金を受け取ることができることを説明→住民票のある自治体で確認できる。
③ 副反応のリスクは?→新型コロナウイルスのワクチン接種と同程度です。
まとめ
帯状疱疹は80才までの3人に1人が発症する疾患ですが命に関わることがなく、痛みに関しては軽視されてきたことをペインクリニック診療の中で実感してきました。帯状疱疹ワクチンは日本で開発されましたが、欧米から数年以上の遅れをとって承認されました。COVIDのパンデミックで日本人は2回接種のワウチン接種に慣れました。シングリックスは有償で高価ではありますが、帯状疱疹後に発現する痛み治療を円滑にし、帯状疱疹後神経痛患者を減少または痛みを最小化できるはずです。日本でも普及することを期待します。
平成3年卒 森山 萬秀
(中谷整形外科病院 ペインクリニック科)

2024年8月
還暦にもなっての「手足口病 臨床経過」
実に、還暦にもなったとたん手足口病に感染したので、臨床経過を報告します。
6月30日(日);第1病日
早朝、臥床中、突然の悪寒戦慄が来ました。熱発で立てないほどの全身倦怠・脱力でした。なにがなんだか判りませんでした。かなり経って、なんとか起き上がり、水分摂取とボルタレン(25㎎)2錠内服。またしばらく経って大量の汗が出て、9時頃になってようやく落ち着きました。なんだかケロッとした感じ。あの熱発は何だったのだろう…。一応、クラビッド500㎎1錠内服も併用。疼痛・上気道炎症状、腹痛等、全く症状は無し。便がすこし緩いのみ。熱が下がっていると、全く症状無く元気なのです。
しかし、ボルタレンの効果が切れてくると熱発再燃なのです。ボルタレン服用が4~5時間毎でした。しかし、熱発だけ、と言うのが不思議でした。夕方に家に在ったCOVID19 の抗原検査(鼻から自分で綿棒突っ込みました)するも陰性。なんの熱発か判らず不安感増大です。病名が判らないというのは本当に精神的に辛かったです。
7月1日(月);第2病日
昨日と同様、4~5時間毎にボルタレン内服しないと熱発あり。しかし、他の症状は全く無く、熱が下がっていると全く普通。いったい何の熱発なのかまだ不明。しかしクラビッド500㎎内服継続していました。
7月2日(火);第3病日
一昨日、昨日と同様です。熱発が続き、しかしボルタレン内服も5~6時間毎と、少し熱発が収まってきた感じあり。口内が痛くなってきて、ボルタレン連用による胃腸障害かなあ、などと想像。喉も少し痛くなってきたので、COVID19・インフルエンザの抗原検査再検してみました。しかし、双方とも陰性。よってクラビッド500㎎内服継続。
夕方以降、立ったり歩いたりすると足の裏が痛いなあ…と思ってはいたのです。夜にお風呂に入って、足をみると、なんと発疹がありました。えっ⁈ 一瞬ヘルペスかと思いましたが自発痛もないし、発疹の型が違う。そしてふと手を見ると手にも発疹が。そういえば口内・喉も痛いんだった…。手と足と口と、この発疹の型は、そう、これは手足口病ではないか! コクサッキーウイルスとかエンテロウイルスとかでしたでしょうか。
診断がついて、一気に気が楽になりました。流行ってるもんな~…、どっかで貰ったのでしょう(後で調べると、コクサッキーA6の感染では、1ヶ月以内に爪が剥がれるとか。恐ろしいなあ)。
しかし、口の中が痛く、食事の前にボルタレンを服用して経口摂食するという状態でした。ジュースやフルーツは口の中が沁みて受け付けなかったです。手足の発疹の自発痛は無かったです。歩くと体重がかかって痛いというかジンジンする感じ。ちょっとボルタレンの効きが良くなってきたのか、熱感はおさまってきました。
7月3日(水);第4病日
熱発は急速に減衰。倦怠感はありましたが、昼以降、熱発は無くなりました。あれだけ熱が出たのです、そりゃしんどいです…。一回くらい血液検査すべきでしたが、結局検査せず(伝染性単核球症は27歳で罹患済み)。ただ、口内が痛いので、食事前にはボルタレンを服用していました。口内が痛いだけで食欲は落ちませんでした。ボルタレンが良く効いて、口内の痛みは消褪します。
発疹は手・足に広がり、右大腿にひとつ、左の耳たぶにひとつ、顔面頬部に2~3個出ました。発疹に自発痛は無いのですが、歩いたりすると、足の裏に圧がかかって痛いというか、違和感があります。
7月4日(木);第5病日
熱発は全く無くなりました。口内は痛いのですが、軽減しつつあります。ボルタレン服用は、この日2回のみで、本日でボルタレン服用は必要なくなりました。発疹出現は昨日~今日あたりが極期だったと思います。
7月5日(金);第6病日
倦怠感・発疹も軽減中。歩行時の足の痛みも軽減してきて、ためしに7000歩ほども歩きましたが大丈夫。口内の痛みも軽減。食事も普通に摂れます。発疹は色が濃くなってきて、痂疲化してきました。
7月6日(土);第7病日
発疹は痂疲化で色が濃くなるとともに(目立って恥ずかしい)、剥離しだしました。指先など、目立ちます。採血する時などに患者さんに「どうしたんですか」と訊かれて、手足口病でこれこれこうで…と説明するのも大変でした。もう治癒期と言っていいと思いますが、発疹が目立たなくなるには1カ月近くかかるのではないでしょうか。
7月7日(日);第8病日 以降
その後は、発疹が痂疲化・変色し、剥離していきました。足など、もう見るも無残な状態です。ボロボロと言っていいでしょう。歩くと足の裏に違和感はありますが、ほぼ支障無し。幸い、手足とも爪の剥離は無かったのです。
発症から4週間が経過して、指の発疹には色素沈着が残っています。そんなに目立たなくなってきましたが、もうすこし薄くなるでしょうか…。
今回、成人の手足口病の臨床経過につき、自分の体験が成書に書かれているような通常コースであったので、改めて確認のため、そして皆様のなんらかの診療の一助にはなろうかと、自嘲をこめて報告いたしました。
平成2年卒 児玉 岳

2024年7月
映画「あまろっく」のロケ地の隣
~となりの近松さん~
今春、公開された映画「あまろっく」。尼崎のある家族を描いた映画です。鶴瓶師匠や中条あやみさん、江口のりこさん等が出演する家族愛を描いたほんのり映画です。映画のストーリーについては、是非ご覧になって下さい。尼崎南部のいろんな所が出てきて、兵庫医大からほど遠くない場所の風景に見覚えがある方もおられるかもしれません。また、武庫川や武庫川駅前(尼崎側)の食堂などもロケに使われているので、ご飯を食べに行かれた方もおられるかもしれません。そこのお店のおばちゃん、実はうちの患者さんであったりします。
さて、この映画は「近松家」という家族の物語です(尼崎だけに「近松門左衛門」の近松なのでしょう)。尼崎に住む近松家の親子3人(父母と娘)家族でしたが、母親は早く亡くなり、娘は京都大学に進学して東京の会社に就職したものの色々あって里帰り、父親(鶴瓶師匠)の住む尼崎の実家に戻ってきていました。そこに若い後妻さんが来るというところからドタバタが始まります。まあ茶番であり共感できるシチュエーションではないのですが、地元だけに無理やり共感させられてしまいます。
この「近松家」として使われた家屋、この「あまろっく」のパンフレットに載っている家なのですが、じつは児玉医院の隣家だったのです。長らく空き家だったのですが、近所に関係者の方が居て、この空き家の存在を監督に教えたのだとか。それで、家主に電話して(最初家主は詐欺か何かだと思ったそう)、1カ月間ロケのために借りたということです。
昨年(令和5年)の3月頃、助監督か何かの人が、隣家でロケのある日の日取りを書いた紙を持って来て、「ご迷惑をかけますがよろしくおねがいいたします」みたいなことを言ってきました。夜間のロケもあり、それも嵐を表現するため放水するシーンもあり、その時は敷地内に少し入らせてほしいとかなんとか。まあ、はっきり言って胡散臭いな~と思ったものです。でも、調べてみると、文化庁の助成金も受けているちゃんとした映画らしい(税金も投入されてんじゃん)。
令和5年4月(映画公開の1年前)、断続的にはではありますが隣家でロケが始まりました。随時20~30人のスタッフがやってきます。診療所の前の道にたむろしてたりします。鶴瓶師匠と中条あやみさんが並んで歩いている所もちらっと見ました。中条さんの顔、鶴瓶師匠の半分くらいというイメージ…。でも、許可してない日に医院の敷地内に器材を置いたり、スタッフがたむろして患者さんが調剤薬局に行きにくかったり、道路使用許可も無いのに前の道にピケはって通行不可にして営業妨害してくれたり、夜間に騒がしくしてくれたり、地域猫を追い出したり、クレームは幾つもありました。前の道を通れなくしてくれた時など、あるスタッフが「道の封鎖が当然」みたいな態度をとるのでちょっと激怒。そのつど、助監督だかADだかが謝りに来るのですが(謝ればいいと思ってる)、監督とか責任者は一回も来なかったなあ。そういう風習なんでしょうね、あの業界は。
ともあれ、児玉医院の隣家だけでなく、尼崎市内各所でロケがなされたようです。阪神尼崎駅で鶴瓶師匠を見かけたこともあります。迷惑はかかったものの1カ月ほどだけのことですし、まあ、映画など滅多に観ないものの、どんな映画だろうかと期待はしたわけです。
令和6年4月、映画「あまろっく」が公開され、一応、一度だけJR尼崎の映画館に観に行きました。尼崎市南部が主なロケ地なのに、尼崎市南部には映画館が無いという皮肉。映画では、児玉医院のお隣や前の道がしょっちゅう映りますから、医院や看板も多少映ります。停めている僕の車も2回程映りました(「近松家」の家屋は空き家とはいうものの一般家屋ですから、ロケ地としては公開されていません)。迷惑かかったとはいうものの、このロケ時はこういう場面を撮ってたのかとか思い当たることもあり、映像に映ると、それなりに嬉しいものです。令和4年~5年頃の尼崎南部の記録映像としても価値はあるかもしれません。
そんなこんなで、「お隣でロケしてましたが、なにか?」と斜に構えて見てました。DVDか何か出たら買おうっと。
映画『あまろっく』公式サイト
平成2年卒 児玉 岳

2024年6月
ジミヘンになりたくて
2010年から加古川医療センターに居ります。整形外科医としての診療機会はほぼ無くなり、理学療法士の「なんちゃって教育係(笑)」として、リハビリのスタッフ達と毎日ワイワイ楽しく過ごしています。2002年と07年に頸椎手術を受け、活動性は「動物園のナマケモノ」レベルに低下、外出することもほとんど無くなりましたが、手足の動きも含め、おかげさまでなんとか元気で65歳の誕生日を迎えることができました。まずは整形外科の先生方に、深く感謝申し上げます。
学生時代より「ノーサッカー、ノーライフ」でした。が、手術を機にサッカーができなくなり、全くの「無趣味じん」となりました。特に還暦を過ぎてからは、ただただ甲子園口と加古川をJRで往復するだけの毎日、唯一の楽しみは帰りの新快速で飲む「超-乾燥*」という・・・実に怠惰な老後に突入、ですが鉄道マニア(VVVFのモーター音が好きです)である私はそこそこ幸せ(特に通勤時間)に暮らしておりました。
そんな昨年のある日、整形外科入局(昭和61年)の同期であるTくんから「やなぽん、昔、音楽やってたんちがうん?オヤジバンドを作ろうとメンバー募集してるんやけど・・・」というお誘いがありました。音楽といえば、小学校で合唱をやっていたのと、短期間ではありますが、大学時代に軽音の皆さんと一緒に楽しく練習させていただいたことがある程度です。でも、大学祭のステージは、今でも鮮明に覚えていて「もう一度、ステージに立ってみたいなあ」と思う中、大きな不安はありましたが思い切って参加することとしました。
初回のミーティングは昨年末に開催、自己紹介と課題曲の確認などして、練習は月1回と決めました。メンバーは4人、ギターのOくん(MRさん)だけ50代、ドラムのTくん(整形外科)、ボーカルとベースのMくん(産婦人科)と私(ベースとギター)の3名は60代という恐ろしい高齢+素人集団です。今のところ「必ず月一回は集まろう!」のルールに従い、計5回の練習会を終え、各自次回の練習へ向けて「コソ練」に励む毎日です。
なかなか演奏はうまく行きませんが「月一回のルール」は遵守できています。今のところ、なんとか合わせることができる曲は「雨上がりの夜空に(RC)」「ブラウンシュガー(ストーンズ)」「抱きしめたい(ビートルズ)」、次回の課題曲は「俺の借金全部でなんぼや」「ホンキートンクウィメン」となっています。
メンバーのみんなそれぞれ「憧れのスター」があります。Oくんはジミーペイジ、Tくんはジンジャーベイカー、Mくんはロバートプラント、そして私はジミヘン!なのですよ(笑)。でも(私も含め)、残念ながらみんなおなかが出ている(涙)ので、心機一転!憧れのスターを夢見て、「脱コレステローラー!」そして「目指そうロックンローラー!」を合言葉に、ダイエットに打ち込んでいます・・・か?
以上、来年春に定年を迎えることになっている「とある前期高齢者」の近況を報告しました。人生の最終章で、このようなすてきな趣味に恵まれましたことは、短い期間ではありましたが、大学時代にお世話になりました「軽音の皆さま」のおかげと、この場をお借りして心より御礼申し上げると共に、皆さまのますますのご発展をお祈りしております。本当にありがとうございました^ ^
*:アサヒのビールです(笑)
昭和61年卒 柳田 博美
(兵庫県立加古川医療センター)

2024年5月
ペインクリニックと帯状疱疹-第2稿-
帯状疱疹(herpes zoster:以下HZ)
病態
幼少期(主に9歳以下)に水痘・帯状疱疹ウイルス(varicella zoster virus:以下VZV)感染によって水疱瘡に罹患し治癒するが、VZVは脊髄後根神経節や三叉神経節に潜伏する。その後VZVに対する特異的細胞性免疫が低下し、神経節に潜伏していたVZVが再活性化しデルマトームに沿って有痛性の皮疹が出現する。
症状
HZの主な症状は“痛み”であり、約75%の患者で皮疹出現の2~7日前(ウイルス炎症が神経節からデルマトームに到達するまでの期間)に、Pre Herpetic Pain:以下PHPが出現する。痛みは、「灼けるような」,「刺すような」,「拍動するような」と表現され、触るだけで痛みが増強するアロディニアを伴うことも多い。痛みを主訴にクリニックや病院を受診するが、PHPの時点から診断治療が開始されるケースは極めて稀なため、その痛みは不安により助長されやすい。急性期~亜急性期の間に、神経障害が強い患者に対する痛み治療が不充分な場合、帯状疱疹後神経痛(Post Herpetic Neuralgia:以下PHN)へ移行し後遺障害を残すため、初期からの痛み治療が重要となります。
治療
薬物療法
1)抗ウイルス薬
バラシクロビル、ファムシクロビルを投与することで、皮疹の痂皮化を促進し表面部痛の軽減が期待できるがPHNへの移行抑止効果はない。高齢の腎機能低下症例では減量投与が必要であったが、現在は糞便排泄のアメナメビルが腎機能低下症例にも使用しやすく、1日1回投与でよいことも利点である。
2)鎮痛薬
急性期の軽度の痛みには腎機能に留意したNSAIDsとアセトアミノフェンが第1選択となるが、痛みによる睡眠障害を訴える場合は中等~重症と考え鎮痛薬を変更強化する必要があります。急性期は症状が変化していきますので週2回程度、受診していただき投薬の種類や量の調整をするのがよいと考えます。発症2週間後や皮疹が痂皮化しても痛みが持続する場合はペインクリニックへの紹介を検討していただければと思います。
ペインクリニック学会の治療指針ではコデイン、トラマドール、強オピオイドも検討するとあるが、コデインは体内でモルヒネに変換され、薬理活性の強いモルヒネの代謝産物はクレアチニンクリアランス依存性に排泄されるため高齢者への使用はオピオイド蓄積に対するリスクが高いことに留意する必要があります。HZではオピオイド不応症例が多いため私は最終選択に位置づけています。ペインクリニックではプレギャバリンや三環系抗うつ薬がよく選択されます。
3)神経ブロック療法
硬膜外ブロック:脊髄後根神経節からの痛みの侵入を防御し、HZによる痛みに最も強力な鎮痛効果と神経痛収束効果が期待できます。硬膜外ブロックはレントゲン透視下での施行が主流となっており、短時間で患者のストレスも少なく安全に行えるようになっています。
末梢神経ブロック:理論上は硬膜外ブロックに劣りますが、超音波ガイドで施行するため施術者の被暴がなく、出血に関する患者へのリスクも低く、臨床上の鎮痛効果は優れています。比較的新しい治療のため、PHNへの移行を抑止する効果に関しては今後明らかになるものと思われます。
まとめ
帯状疱疹ワクチンから持ち上がった企画にも関わらず帯状疱疹の話ばかりになり申し訳ありません。ペインクリニックで診療が行われている最もメジャーな疾患(痛み)でありPHN移行抑止の重要性を理解していただいておくことは帯状疱疹ワクチンの必要性を理解することにつながると考え長々と続いております。次回が最後です。ワクチンの話を私が理解している範囲内で述べさせていただきたいと思います。
写真:掛布選手と
平成3年卒 森山 萬秀
(中谷整形外科病院 ペインクリニック科)
2024年4月
急性関西人症候群に関する一考察
今回、急性関西人症候群(AKS)の原因・経過・治療法・予後等に関する考察をまとめた。得られた新知見は必ずしも多くないが、臨床上、有意義な点も幾つか存在すると考えるので、ここに公表したい。緑樹会学術奨励賞の授与をご検討いただければ幸いである。
急性関西人症候群(Acute Kansaian syndrome)
某協会のCMにおいて、東京から転勤で関西(大阪あたり?)に単身赴任してきた独身男性が急激に「関西化」してしまうという症例を発表していた。彼は「なんでやねん」と一人ツッコミを入れ、「ホテル」といえば「ニュウ~アワ~ジ~♪」、「お仏壇の」といえば「ハマヤ~」と即座に反応する。アイスコーヒーのことを「冷コー」と言ってしまったりして発語異常を生じてしまう。自己同一性の損壊を来たした彼は某医院を受診、「急性の関西人やね」と診断されていたのである、知らんけど。
さて、この彼の疾患であるが、「急性関西人症候群(Acute Kansaian syndrome)」として報告された(2020年「某医師会機関紙」)。この急性関西人症候群は、数十年前には「〇〇やおまへんか」、「でんがな・まんがな」などと発する旧制関西人症候群であったが、それらの罹患者は急逝するにいたり、現在は根絶されている。
この急性関西人症候群(AKS)は「なんでやねんウイルス」(KYK551ウイルスともいわれる)の中枢神経系へ感染が原因である。このウイルスに対する親和性を持つ者あるいは関西免疫不全状態の者が感染することが多い。感染経路はまだ確定していない。「なんでやねん」と肩を叩かれた際に感染するとする接触感染、もしくは「六甲おろし」にウイルスが含まれるとする空気感染とも言われるが定かではない。あるいは淀川の水からの経口感染とする説もある。しかし、「六甲のおいしい水」を飲用する者にも発症することもあるとされる。潜伏期間は明確ではないが1日~100年とされる。
リンパ球に「なんでやねんウイルス」に対するレセプター(NYNrecepter)があり、リンパ球に感染、ことにTリンパ球に感染すると急速にTigers化し、G因子(いまだに実態が確認されていない)を排除するように働き、大脳前頭葉の変容が見られる。これが「関西人症候群」の本態である。この関西人症候群は、超急性期には自覚症状に乏しく、味覚の変化や発言のイントネーションが気になる程度であるが、急性期(いわゆる急性関西人症候群)には「ボケ・つっこみ」徴候、「知らんけど」発言、「ホテルにゅーあわ痔」の3徴を呈し、通天閣や甲子園球場を聖地とみなすような幻覚が現れる。味覚の変化も特徴的で、アメちゃんやタコ焼きを渇望し、お好み焼きにご飯・ラーメンにご飯といった「粉モン・コラボ」の嗜好変化によりメタボリック症候群を合併することも稀ではない。音声の変化は病状として顕著で、慢性期には「まくど」、「なんばほーらい」、「ひっしのぱっち」、「アレ」、「おーん」など意味不明の言語を話すようになり、「みっくちゅじゅーちゅ」、「ヨロガワのミル」、「ドンつき」、「アマシンにきいたらええやん」などの不明瞭言語がみられるようになると廃退期・末期で予後は悪い。最終的に「やってられへんは」、「ほな、さいなら」とか意味不明な発言をしながら道頓堀にダイブするという。カーネルサンダースの呪いなる陰謀が一時説かれたこともあったが、それは解かれたようだ。
疫学的には患家にはタコ焼き器の所有が高確率であるとされ、エスカレーターでは右側に並ぶ(京都では逆であるという)。性差は確認されていないが、女性ではアメちゃん携帯症候群やヒョウ柄着用症候群を合併することもあるとされる。
治療法はいまだ確立されておらず、突発性、進行性の経過をとるため対症療法のみである。将来、なんでやねんウイルスに対するワクチンの開発が待たれる。
平成2年卒 児玉 岳

2024年3月
~宇宙を見上げて~
昔の話
小学生の頃、誕生日に両親からもらった星座早見盤が天体に興味を持つきっかけになりました。小さな屈折望遠鏡で初めて月のクレーターを見た時は本当に感動しました。しかし当時の私の周りには天体観測の趣味をもった子供はおらず、昼間の太陽黒点観測などを独りで楽しんでいました。
中学生になりようやく、隣町の中学校で天文仲間と巡り会いました。週末の夜に、街灯りの少ない場所を探してはみんなで集合。夜間に彷徨う怪しげな少年グループは、お巡りさんに何度も声を掛けられました。放課後にはサッカー部の練習もあったのですが星空を観たい気持ちを抑えられず、昼夜構わず活動していました。この頃からすでに私の生活リズムはあまりよろしくなかったようです。
理系を目指す仲間達は皆同じ高校に入学。高校でも仲良く天文活動を続けていました。当時はフィルムカメラを赤道儀望遠鏡に装着して手動追尾。写真を一枚撮影するためには数分間の露光が必要です。ガイドスコープを覗きながら瞬きせぬよう、涙目も堪えて撮影していました。フィルムの感度を上げるためにR64赤色フィルターに赤外線フィルム(コダック103aEなど)を水素増感処理する特殊な方法を試したりもしていました。インターネットも無い時代、三宮の書店や元町高架下の古本屋をうろつき天文雑誌や専門書籍を漁っては熱心に勉強していたようです。
デジタル時代の到来
2000年頃からフィルムカメラに変わって、デジタルカメラが普及してきました。一般の被写体とは異なり天体はとても暗く微細な対象なので、撮影には長時間の露光が必要になります。ところが半導体製のセンサーは発熱量が大きく、長時間露光すると熱によって発生する画像ノイズが問題になりました。さらにこの頃のCCDセンサーはとても高額でハイアマチュアか天文台・研究機関でしか扱えない代物でした。ようやく最近になり小型で高性能な天文用のCMOSセンサーが登場してきました。Sonyなどの日本製センサーを使った台湾・中国製品が安価で普及してきたのです。冷却装置が付いた機種は-20℃くらいまでセンサー温度を下げることで、発熱ノイズ問題も克服しました。 まさしく天文写真のGame Changer! 写真フィルムでしか撮影したことのない私には、目から鱗でした。再び天文熱に火がついたわけです。
光学系の進歩
写真フィルムの表面はミクロレベルではヨレヨレのデコボコで精度の悪いものでした。一方、半導体センサーは精度の良い平面です。センサー上の正確な結像を得るために、天体望遠鏡にも光学設計の見直しが必要となりました。また新たなレンズ硝材の採用、補正レンズの導入などにより収差やスポット解像度など光学系が著しく向上しました。 昔から蛍石(フローライト)が優れた硝材として知られていますが大変高価で一般人には高嶺の花でした。最近は安価で高性能な人工硝材(オハラ社など)が用いられるようになりました。
補償光学 deconvolution
宇宙の光を地上で観測する限り、大気の影響を大きく受けます。大気通過で光が回析することによるボケをconvolution(畳み込み積分)、blurなどと呼びます。陽炎や蜃気楼を想像するとわかりますが、高倍率で撮影する対象物には大変な障壁になります。これらの光学的ボケを補正することをdeconvolution(逆畳み込み)といいます。 病理組織診断など顕微鏡の画像処理などにも応用されています。ソフトウェアdeconvolution処理によって、本来の天体像を再現することで解像度は格段に向上しました。
画像データ演算処理
画像データの解析・演算方法も大変進歩しています。一眼レフカメラ、ましてやコンデジでもないiPhoneであんなに綺麗な映像が撮れるなんて驚きですよね?小さなレンズや筐体で綺麗に撮影できるのは、画像データの演算処理技術向上の賜物だと思います。 天文写真は昼間の明るい被写体と比べて大変微細で弱い対象なので、長時間露光画像を何枚も撮影し、これを集積演算処理する必要があります。アマチュア向けではステライメージ(アストロアーツ社)が国産ソフトウェアとして根強い人気ですが、私はスペインPleiades Astrophoto社のPixInsightを使っています。非常に多くの画像処理コマンド(プロセス)があり、これを解説すると1冊の書籍では収まりきれません。現在も頻回に更新・改良が繰り返され、なお発展中のソフトです。私は使い始めてばかりで経験が浅く、まだまだ勉強中です。同社のHPコミュニティには世界中のアマチュア天文家が活発に意見交換を交わしており、そのActibityの高さに驚きます。
波動歯車装置赤道儀
赤道儀も進化しました。大きく重い赤道儀はかつてのポータブル赤道儀くらいの小ささ、軽さになりました。波動歯車装置(ハーモニックドライブ)のモーターは信じられないくらい力持ちで、携帯アプリで操作できます。もはや微動ハンドル、カウンターウェイトもありません。
星空のナビゲーション Plate Solving
観測には星図という地図帳のようなものを用いていました。今はスマホアプリで誰もが利用できます。天文アプリがASCOM基準で統一され、SharpCap、N.i.N.A.などのソフトウェアで赤道儀やカメラなどの機器を一括してPCで制御できるようになりました。天体情報は精密なデジタルデータとして公開され、天体画像から正確な座標が計算できるようになりました。(画像から星の座標を掴むことをPlateSolvingと言います)適当な場所を望遠鏡の視野に入れたら、現在位置の座標を計算し、目的の天体まで自動で案内。まさに星空のナビゲーションが完成しています。これには腰を抜かすくらい驚きました。なぜなら観測の労力の大半は暗く見えづらい天体を望遠鏡の視野に入れる(これを導入と言います)のに費やしていたんですから・・・
オートガイドPHD2
ガイド鏡(副鏡)に十字線の入ったアイピース、星像がその中心から外れないように何分間もじっと追いかける・・・。寒い夜、赤道儀の微動ハンドルを少しずつ動かしながら、瞬きも堪えて涙目でアイピースを覗く行為はまさに修行のようでした。そんな苦労はもう昔話。ほとんどほったらかしでも高精度追尾してくれます。
魔法の小箱 中華の底力
もうここまで来たら、もっともっと楽して星を見たいって思うのが人情ですね・・・。オートガイド、観測ソフトや赤道儀制御に撮影画像データ保存、何でもかんでも1台に突っ込んじゃえ!って出来たのが中華製の魔法の小箱。ZWO社製のASI Airは超小型PCにWiFiや観測機器の電源管理、さらには望遠鏡のピント合わせや赤道儀の極軸合わせまでできる機能を持たせて販売されました。アマチュア天文家たちが善意で無料配布したソフトを勝手に(?)取り込んで金儲けしていることには若干の???を感じますが、日本人には思いつかなかったアイデアと使い勝手は素晴らしい。
光害
都市圏から遠く離れた、満天の星空の下で。理想的ですよね、年に一回の旅行なら可能かも知れませんが・・・。たくさんの街明かりの中で密集して暮らしている私たちには、毎日そんな星空を眺めるなんて到底敵わぬ夢です。星が見えないのは空が明るく星の光が埋もれてしまっているから。
空が明るいのは街の明かりが大気で反射しているからです。雲や大気中の埃などが多いほど、そして地上の光が強いほど大きく影響を受けてしまいます。
散光星雲
星間ガスや宇宙塵などの宇宙間物質が付近の恒星等から発せられる紫外線を受けると、分子から電子が飛び出して電離ガス(プラズマ)となります。電離ガスが発光して見える星雲を輝線星雲といいます。対して恒星の光に照らされて見えるものが反射星雲です。スバルのガス雲が有名ですね。
散光星雲はとても巨大で視野角が大きいので、本来は低倍率で見える(はずの)大きさの天体です。実際その光は赤外線に近いので人間の目では見えづらく、オリオン座のM42、射手座M8・M20などの特別明るいものを除けばメシエカタログにも載っていないものが数多くあります。これらの輝線星雲に含まれる水素H 硫黄S 酸素O 分子の電離ガスから放たれる電磁線(光)は、それぞれ固有の限られた狭い波長に偏っています。
ナローバンド撮影
そこでこの波長だけを透過する狭帯域フィルターを使用して撮影するのがナローバンド撮影です。
Hα(656.3 nm)、S(671.6 nmと673.1 nm)、O(500.7nm)の波長に絞って各々個別に撮影します。私はこの波長の中心から3nm幅域に絞ったフィルターを使用しています。フィルターで光害も除くことが出来、非常に高コントラストの画像が撮影可能になりました。
※冒頭の写真はこの手法で西宮市内で撮影しました。まだまだお恥ずかしい出来栄えですが、光害の中心地でもこんなに写るとは感動ものです。
薔薇星雲(NGC2237)、ハート星雲(IC1805)
最後に
あまりの技術進歩に驚きを隠せず、機器の話ばかりになってしまいました。口径5cm,焦点距離250mmの小さな屈折望遠鏡でこれほど詳細な画像が撮影できる時代になったとは・・・。
機器セッティング以外の操作は全てiPadで行っています。WiFi接続なので望遠鏡から離れても大丈夫です。寒い日は車や家の中でぬくぬくと温まりながら楽しんでいます。 天候条件が悪い日は溜まった撮影データ処理です。PCの前に座り込んで、ああでもないこうでもないと試行錯誤する作業がまた一つの楽しみです。
ハッブル宇宙望遠鏡やジェイムスウェッブなど、宇宙観測はかつて無いほどの盛り上がりをみせていますね。まったく星の話は何夜あっても語り足りません。
星々の姿を眺めると、日頃の悩みを忘れて本当に癒されます。毎日慌ただしく過ごしているその頭上には未知の世界が無限に広がっています。その魅力を一人でも多くの方に気付いてもらえれば嬉しく思います。
平成3年卒 大迎 知宏

2024年2月
ペインクリニックと帯状疱疹 -第1稿-
今回、同級生の保科先生から、最近テレビのCMでも見かけるようになっている帯状疱疹ワクチンについて、ペインクリニックの立場からコメントが欲しいと依頼を受けました。ワクチンの話だけでは面白くないので、せっかくの機会ですし、帯状疱疹に関わる様々なことを紹介させていただくということで快諾させていただきました。理解を深めていただくためには長文になりますので、何回かにわけて述べていきたいと思います。
私は平成3年に兵庫医大を卒業し、麻酔科に入局しました。帯状疱疹という病気を知ったのは、当時ICUで勤務していた20代後半の血管外科医が第4神経領域の皮膚分節の範囲内に2mm程度の水泡(2-3個程度)が出現し激痛を訴えていました。抗体価の上昇には時間を要するため症状から胸部帯状疱疹と診断されました。抗ウイルス薬と痛みに対してはNSAIDsが投与されましたが全く効かず、持続硬膜外カテーテルを挿入し無痛状態となり休業することなく3日後には痛みは収束し治癒しました。『そんなに痛いんか?』と思いました。以後は関連病院での麻酔科業務を行ううえで帯状疱疹患者に遭遇することもなく、平成11年から兵庫医大のペインクリニックの専従医となりました。ペインクリニックで長期的にフォローアップされている慢性疼痛患者が大勢いましたが、帯状疱疹後神経痛(Post Herpetic Neuralgia:以下PHN)患者が最も多いことを知りました。当時、PHN患者をいかに減少させるかという目的で兵庫県PHN研究会がたちあがっており、兵庫医大のペインクリニック、皮膚科、眼科、内科等複数診療科が参加し、PHNへ移行するリスクファクターを調査しました。正確な数字は私の手元に残っていませんが、発症3カ月と6か月後の時点で不快な痛みが残存しているかを通院が途絶えた患者にもはがきを郵送しPHN患者と診断できた患者の急性期から亜急性期の症状を分析しリスクファクターが判明しました。①水泡(皮疹)の集簇性が密であるほど②発症部位の感覚低下が強いほど(感覚脱失が最重症)③痛みによる睡眠障害(導入障害・中途覚醒・早期覚醒)を放置されている④高齢であるほどの4点がPHNに移行しやすいファクターであることがわかり、現在の診療においても患者への説明に役立っております。またこの結果が、帯状疱疹痛に対するペインクリニックの早期介入の必要性に関する啓蒙になればと期待していましたが、ペインクリニックへのコンサルトはまだまだ少ないのが現状と感じております。近年、痛み治療の重要性が本邦でも重要視されつつあり、ここ10数年間で、オピオイドを含め種々の鎮痛機序の治療薬が承認されてきています。高齢化が進み、運動器の痛みに関して新たな鎮痛薬は有効に活用されていますが、高齢者の帯状疱疹では、基礎疾患を有する免疫機能低下症例が多く、副作用への配慮もあり新たな鎮痛薬は有効に活用されていません。またPHNは薬物療法の限界症例が多いのも事実で、重症症例では神経ブロックを含めペインクリニックの早期介入がPHNへの移行を抑止またはPHNの最小化に重要であると確信しております。COVIDのパンデミックは世界を震撼させ、無償でワクチンの提供を受けることで収束状態に至っていますが、PHNは命に別状がなく、ワクチンは有償でインフルエンザよりも高価なため、今後どのように展開するかは予測困難で、どの程度PHNへの移行を抑止できるかはわかりかねます。次稿ではペインクリニックで行われている帯状疱疹痛(急性期・亜急性期)、PHN治療に関して紹介させていただきたいと思います。帯状疱疹はあらゆる診療科の医師が診療する可能性があるためPHNの問題点にも耳をかたむけていただければ幸いです。
写真:楕円を追いかけていた頃
平成3年卒 森山 萬秀
(中谷整形外科病院 ペインクリニック科)

2024年2月
ビタミンB12 欠乏性貧血
ビタミンB12は、核酸合成に必要なビタミンで、吸収障害、摂取量減少、利用障害で欠乏症を来たします。臨床上、胃切後数年以上経過して発症、もしくは高齢にての萎縮性胃炎などで見かけます。
診断は比較的容易で、既往の聴取(胃切の有無、食生活)と血液検査(末梢血一般、MCV)で概ねのことが判ります。貧血、いわゆる大球性貧血を呈します。原因が判らなかった時代には治療困難で「悪性貧血」と呼ばれたそうです。語感だけで言うと「悪」くて「貧し
い」という最低最悪な病名の一つと言えるかもしれません。病状が進展すると神経障害を来たすようですが、そこまでのものは診たことがありません。
弊院でも、現在4例ほどのビタミンB12欠乏性貧血を診ております。
経過をグラフに書いてみますと、ビタミンB12の投与(静注・筋注)で著名な改善をみていることが判ります。内科医冥利に尽きる疾患です。
平成2年卒 元第2内科 児玉 岳

2024年1月
23年間、兵庫医科大学病院との二人三脚で診ています。
2000年1月、それは僕がまだ継承開業する直前の頃でした。前年、某T薬品を退職したという60歳の男性Kさんが、当該本社診療所からの診療情報提供書を持って、うちを受診されました。高血圧症で投薬を受けていたとのこと。同じくT薬品の降圧剤処方を継続しました。そして児玉医院を新築し開業したのは2000年11月1日のことでした。
2001年11月、体重+2㎏で軽度の浮腫あり、それまで安定していた血圧も上昇していました。利尿剤を追加投与してみました。ところが同12月、下腿浮腫増悪、検尿にて尿蛋白(3+)・尿潜血(2+)、血液検査するにTP4.1、Alb2.3、CRE0.8、BUN14.0 であり、ネフローゼ症候群を疑って兵庫医科大学腎臓内科を受診して頂きました。
その後、Kさんは5年に渡り兵庫医科大学腎臓内科でfollowされ、ステロイド使用もあったようですがネフローゼ症候群が完全緩解に到り、同科は終診となりました。
2005年3月、正直言ってKさんのことは忘れていましたが、Kさんは再び当院にて高血圧症の投薬を行うこととなりました。血圧安定、血液検査・尿検査には異常無し。
2008年4月、RBC433万・Hb12.9。
2010年11月、便Hb(―)&(―)。
2015年5月、KさんはGWに日本半周のクルージング旅行中、気管支炎症状・熱発・食欲不振あり。GW明けに受診され、胸部XPにて右下肺野に気管支炎像をみました。血液検査にてCRP9.6(のちに1.96に低下)、RBC421万・Hb10.5・MCV80と貧血気味。抗生物質等投与にて気管支炎は軽快したのですが、貧血の原因検索のため便検査してみると便Hb(+)&(―)。ちなみにCEA・CA19-9 は陰性。
2015年6月、胃腸症状は無かったのですが、兵庫医科大学上部消化器外科を受診して頂きました。と、胃癌でした。胃体下部大弯側に2型進行癌との由でした。同8月に上部消化器外科に入院、当時の笹子教授のもと、D2郭清R-Y再建の開腹手術を行い、同8月退院となりました。
2015年9月以降、兵庫医科大学消化器外科でもfollowを受けつつ、当院で高血圧症の投薬を再開。血圧は安定していました。
2016年9月、体重減少・貧血傾向あり。兵庫医科大学にてMRI検査、膵臓に嚢胞? 膵のfollow続けることとなりました。2018年、MRI・PET検査。膵嚢胞不変。2019年10月、MRIにて膵嚢胞不変、血液検査特変無し。そして2020年6月、Kさん念願の兵庫医科大学消化器外科が5年経って終診です。
2020年8月、胸部の帯状疱疹で兵庫医科大学皮膚科受診。投薬にて治癒しています。後神経痛も無かったです。
2021年4月、少し浮腫あり、徐脈~不整脈あり。
2021年5月、心不全にて兵庫医科大学循環器内科に入院。心房細動・うっ血性心不全とのことでした。同6月退院となっています。
2021年11月より、高血圧・心房細動・心不全の投薬を併せ当院にて再開となりました。以後、処方を調整しつつ内服継続しています。血圧は安定しています。
2023年11月、Kさんの投薬量を少し減らし、外来診療継続中。いつしか僕も、Kさんが初診でうちに受診した年齢になっています。
2000年から23年に渡って、Kさんを診ています。23年の間には、兵庫医科大学病院に本当にお世話になっています。2001年の腎臓内科、2015年の消化器外科、2020年の皮膚科、2021年の循環器内科…。
2020年の帯状疱疹を除いて、その他は対応を誤れば、Kさんは死に至っていたかもしれません。
いま、僕もKさんが最初にうちに受診した年齢に達したわけで、これからの23年、僕も兵庫医科大学病院をはじめ、いろんなところにお世話になるのかもしれません。その時はよろしくお願いいたします。
平成2年卒 児玉 岳