石橋 彩伽さん(第5学年次)

クロアチア・リエカ大学での留学を終えて

本大学のプログラムに参加し、1か月間の臨床実習をクロアチアで行いました。初めに、支援して下さった本学校の教職員の皆様、現地で指導して頂きました先生方に感謝申し上げます。

振り返ると神経内科学にどっぷりと浸かった4週間でした。前半は成人の患者さんが多くいる神経内科、後半は小児神経内科で実習を行いました。

初めの2週間は神経内科で最も印象に残っているのは2週目の木曜日の実習でした。トルコからの留学生とタッグを組んで、患者さんの問診と神経診察しました。限られた時間の中で、一通りの神経診察をして先生に報告する必要があり、片麻痺の患者さんにBarre兆候が出たときは声が出そうになり、指鼻指試験で企図振戦が出現したときは私も震えました。何よりも患者さんが協力のおかげで実現した実習だったと感じました。ある時はバイリンガル(英語&クロアチア語)の患者さんが通訳を買って出てくださって、その患者さんと2人で部屋中の病歴を聴取しました。本当に自由ですが、だからこそ、すべてが自分次第の実習でした。このような日本との大きな違いを指導医の先生に話すと「この国では、医学生もやる気があれば手術できるし腰椎穿刺もできる。」と説明を受けました。

疾患と戦争の結びつきも大変印象的でした。91年から95年にかけて、セルビア人の中央集権化に反発する形で、クロアチア人はユーゴスラビアからの独立戦争をしていました。疾患と戦争の繋がりを感じる瞬間は何度も訪れました。例えば、多発性硬化症の患者さんに感染の既往や脳の手術歴を聴取したところ、「戦争中、自分は前線で兵士として戦っていた。そして友達が頭を撃ち抜かれるのを見た。そのショックが大きなストレスとなってMSを発症したと考えている。」と語り始めました。現地の人は脈略なく「the war」といって、戦争体験を語り始めます。その戦争がクロアチア紛争であり、その悲惨さを知っている必要がありました。4年次に受講した医療入門の或る先生が「病気を抱えた人のnarrativeを理解するためには教養が必要」と述べていたその言葉は私の体感となりました。

 後半の2週間は小児神経科の実習でした。患者さんの問診と身体診察をさせて頂きましたが、やっとの思いでクロアチア語を覚え、指と鼻を交互に指してね、と言っても、NE!NENENENE!(クロアチア語でNEはいや!の意味)と拒否されることもしばしばで、最終的には病棟でひと踊りして、どさくさに紛れて診察を決行したこともありました。しかし、病棟には幼児だけではなく、思春期の方々もいらっしゃるので、大変恥ずかしかったです。ただ、NEを連呼したその子は、退院の日、カラフルなハートが沢山描かれた絵を私に渡してくれたので私の心は梅雨明けしました。また、最終日、小児神経科の先生方がパーティをしてくださり、小児神経科のスタッフさんにたくさんの愛を頂き、感無量でした。

自由時間も素晴らしかったです。様々な国の医学生と友達ができたことは代え難い経験となりました。トルコでは、臨床実習生が処方箋を出し救急診療の初期対応を任せられるそうです。また実習時間も午前8時から12時間であり、当直も経験します。しかし、トルコには卒業試験や国試がなく、卒業さえすれば自動的に医師になるそうで、これは一長一短であると思いました。日本の医学部に在籍するメリットは、質の高い知識を吸収・定着できる点が挙げられますが、クロアチア、トルコ、ドイツに比べると、実習生の行動範囲ははるかに狭いと感じました。

振り返ると、3月の派遣学生選考会から9月に日本を離陸するまでも濃厚な日々を過ごしました。面接試験において、名だたる教授陣から「英語が話せないという苦情が出た場合、留学プログラムを来年から打ち切られることだって有り得る。責任をもって挑んでほしい」と、しっかりと釘を刺されたのは記憶に新しいですが、幸運なことに選考を通過できましたが、嬉しさよりも英語力への焦燥が強まりました。様々な人に支えられながら、試行錯誤は半年間続きましたが、私の重圧を吹き飛ばしたのは、渡航前に日本にやってきた交換留学生でした。彼らのウィットに富んだ冗談を聞き、彼らといろんなことを「話せる」という小さな成功体験が私の心を軽くしてくれました。

留学期間はたった1か月でしたが、私にとっては準備期間も含めて7か月間の留学体験でした。