学校法人 兵庫医科大学

創設者 森村茂樹

開学への想い

生い立ち

本学創設者の森村茂樹は、1916年(大正5年)3月21日、兵庫県尼崎市に生まれました。1937年(昭和12年)、精神科医の父の後を継ぐため東京帝国大学(現・東京大学)医学部に入学し、1941年に卒業。卒業した年の秋に診療に奮闘していた父が53歳の若さでこの世を去りました。時は折りしも、日中戦争から太平洋戦争へと進む混乱期。森村茂樹は軍医として全線に赴任し、敗戦後の捕虜期間を経て、1947年(昭和22)年5月に武庫川脳病院の院長に就任しました。

武庫川病院での活動

森村が院長を務めた武庫川病院は、地域医療の拠点として、アルコール中毒患者、麻薬中毒患者をはじめ、社会から見放された人々の救済と治療に全力を挙げました。特に、ヒロポン中毒患者救済のために赤い羽根募金の寄付を受け、財団法人仁明会を設立し、治療施設「赤い羽療園」を開設。また、欧米の新しい精神医学や心理学に着目し、行動療法、行動医学において、我が国の草分けとなる研究・医療活動を手がけました。抗酒薬の研究により、東京大学から医学博士の学位を取得し、アルコール中毒患者の社会復帰を助け、アルコール中毒犯罪者の精神鑑定などにも携わりました。

地域医療を志して

森村の地域医療、社会福祉医療へのアプローチは非常に早く、財団法人仁明会は赤い羽療園に重症心身障がい児のための小児病棟を付設。社会福祉法人施設「甲山福祉センター」に敷地を寄付し、精神薄弱児施設「武庫川児童園」の医療と運営を引き受けました。さらに、精神薄弱児のための「甲山学園」や、特別養護老人ホーム「甲寿園」、兵庫県初の重症心身障がい児施設「砂子療育園」の併設など、社会福祉活動に心血を注ぎました。
医療やさまざまな支援活動に携わる中で、精神科単科の病院としての現状に限界を感じていた森村は、1959年(昭和34年)に「新武庫川病院」の総合病院化の実現へと動き始めます。1961年(昭和36年)に新病棟を増設し、1968年(昭和43年)には「新武庫川病院」を5階まで増築、総合診療棟も完成し、総合医療への道を歩みだしました。

「医科大学」への夢、開学に向けて

1970年(昭和45年)5月、森村は新武庫川病院内外の関係者・協力者に呼びかけて、「学校法人兵庫医科大学設立準備期成会」(当初は武庫川医科大学で申請、その後兵庫医科大学に変更)の設立総会を開催しました。大学設立には多額の資金、広大な用地のみならず、教育・医療設備、優れた人材を必要とします。森村は私財をつぎ込み、不退転の決意で大学の設立をめざしました。
そんな時、認可の条件として「学校法人となる大学用地に私的な財産があってはならない」と指摘され、武庫川病院を取り壊さなければいけなくなり、「生みの苦しみ」の中で設立準備活動を進めました。1971年(昭和46年)11月22日、二度目の申請で大学設置が認可され、翌年春の開学に向けて全精力を傾倒しました。

人望あつく

森村の人柄にひかれて参集した多くの協力者の力添えを得て、一歩ずつ校舎を造り、教育・研究・診療体制を整備しました。そして、1972年(昭和47年)4月に兵庫医科大学が開学し、同月の10日に「兵庫医科大学第1回入学式」が執り行われました。
開学後も教授陣をはじめ教職員の誰の胸にも新たな夢、希望、願いが湧きたっていて、意気盛んでした。森村は、そんな彼らと大学の将来や教育・研究のあり方について議論するのを好み、学生とはまるで我が子のように接し、誰彼となく言葉をかけ、ともに語らうことを楽しみにしていました。

森村茂樹の語録・発言集

「歴史にキズを付ける人生を送れ」
「専門バカになるな」
「雑学を積み、幅広い趣味や興味を持つことが、本当の専門医になる道だ」

「仁愛と英知と創意にみちた有能有為の医師を育成する」
「諸君がつくる伝統、それによってこの学校の運命が決まる」
「広い視野の物の見方、それが教養である」
「衝動的な時間つぶしをするな 悔いのない偉大な享楽者となれ」
「白紙のノートに美しい詩を書きこめ」
「人類の進歩に何等かの爪痕を残してもらいたい」
「いつでも母校に帰ってきなさい」
「人類の福祉という広い眼で医学を学んでいただきたい」
「医学というものの本来の成り立ちは他人愛」