量子化学計算は汎用ソフトGaussianの開発以来、40年以上にわたって化学物質の構造、エネルギーおよび各種の物性値を求めるために用いられてきました。量子化学計算には高い精度でこれらの値を与える反面、多くの計算コストを必要とするという欠点があり、大きな分子を扱うことは長い間困難でありました。しかし近年、精度が高い量子化学計算を短時間で計算を行うことができる分子力学計算と組み合わせるマルチスケールモデルを用いた方法が開発され、酵素反応のように生体高分子の内部で起こる化学反応を計算することができるようになってきました。
現在私たちは、マルチスケールモデルを用いた量子化学計算によって、以下の生体反応の機構を明らかにすることを目標としています。
1. リボソームにおけるペプチド結合形成のメカニズムの解明
リボソームのX線結晶構造解析は2000頃に Yonath, Steitz, Ramakrishnan (2009年ノーベル化学賞受賞)らによって行われ、ペプチド結合形成反応の活性中心である Peptidyl Transferase Center (PTC) を構成する各原子の空間的な配置もすでに明らかにされています。
そこで私たちは、X線で明らかにされたPTCの構造に基づいて、リボソームの活性中心におけるペプチド結合形成のメカニズムをマルチスケールモデル法の一つである ONIOM法を用いて計算しています。これまでにすでに二段階機構の反応中間体や遷移状態における反応基質の最適化構造を明らかにしましたが、現在はさらに計算結果の信頼性を高めるべく、計算条件の検討を行っています。
2. D-アミノ酸酸化酵素の反応機構の解明
D-アミノ酸酸化酵素は生体内にわずかしかないD-アミノ酸を選択的に酸化分解する酵素であるが、近年生体内におけるD-アミノ酸の生理的な役割が明らかにされるとともに、その重要性が再認識されてきています。
この酵素の反応では、酸化の際にD-アミノ酸の位の水素がヒドリドとしてフラビン補酵素に引き抜かれますが、そこで生じるイミノ酸と還元型フラビンアニオンとの間で安定な電荷移動(CT)錯体が生成するため、基質を加えると酵素が紫色に着色することが知られています。
現在、反応機構解明の手始めとして、ONIOM法によってこの電荷移動錯体の最適化構造を求め、電荷移動錯体における電子構造や電荷移動相互作用の詳細について検討を行っています。
還元反応は、実験室のみならず工業的プロセスにおいても広く利用される重要な官能基変換方法です。一般的には、常温・常圧、中性条件下、芳香環以外の様々な官能基を効率よく還元できるため、パラジウム炭素(Pd/C)が広く用いられています。しかし、Pd/Cの高い還元触媒能のため、目的とする官能基を区別して選択的に還元することは困難です。
現在、この点を克服すべく、官能基選択的に接触還元を行うことができる新しい触媒の開発と、その応用に取り組んでいます。
(岐阜薬科大学薬学部佐治木研究室との共同研究)
ある種のオピオイド系鎮痛剤にがん細胞の増殖抑制作用があることが報告されており、がんの分化・増殖へのオピオイド類の関与が注目されています。現在、消化管のオピオイド受容体に作用するロペラミド(止瀉薬)をリード化合物とした誘導体合成を行い、高い抗腫瘍活性を有する化合物の創製に取り組んでいます。これらの化合物は従来の抗腫瘍薬とは異なる作用機序による抗腫瘍活性発現が考えられることから、これまで効果がなかったがん細胞への臨床応用や従来の医薬品との併用による治療効果の向上が期待されます。
(松山大学薬学部岩村研究室との共同研究)