広報
兵庫医科大学医学会
海外研修報告

ワシントン大学生命倫理

● 三浦 耕司さん (第5学年次)

kanemoto01.jpg生命倫理に関する一週間の講義で最も興味深かったのは私がこの研修に参加希望することとなった主な目的の一つである生命維持装置の運用に関する講義であった。第二学年次に枚方療育園にて研修させて頂く機会を得て、そこで数十年という単位で生命維持装置に繋がれている患者さんを目にした。自分がその立場に置かれたならば間違いなく死を選ぶであろうと確信したことで患者さんへの最良の医療の形とはなになのかという大きな疑問を抱く事となった。意思疎通不可能で生命維持装置から離脱不能な患者さんについて、現場の医療従事者に質問を投げかけたこともあったが、既存の法律では一旦生命維持装置を使用開始した後ではそれを外すための判断は殺人行為に値するため不可能であるという事を教わり、その後現在に至るまで解決していない大きな疑問として残っていた。一方アメリカでは生命維持装置の使用停止に関しては決まったガイドラインがある訳ではなく、医師個人あるいはチームの判断により停止ができることになっている。この点はむやみに基準を制定し、生命維持装置の使用停止を禁止して後々の対応に苦慮するよりも、規則で縛らずに現場に任せている環境は非常に参考になるものと感じた。しかし、その判断基準も医師個人により異なるため現在判断基準の作成が求められている事も知った。この講義では現在日本で行われている、生かすためだけの医療による患者への負担をなくす手がかりを得る事ができた。重症心身障害児など意思疎通困難の上に人工呼吸器による換気や胃瘻による栄養管理がなされている患者さんは実質上全ての決定権がない状態にある。そんな患者さんに向き合い、ケアしている方のなかには意思疎通困難だったとしても患者さんに毎日関わっていると日々の表情の変化や体調の変化がわかるという意見を聞く事もある。しかし人間誰しも24時間自由を奪われ、何一つ思うようにならない状態でベッド上で過ごす事は一日として耐えられる事ではないという考えを解決するにはほど遠かった。このような患者さんが存在しているのが日本の現状であり、早期に決断を下せるアメリカとの大きな違いである事は間違いなかった。生命維持装置の停止に関しては非常に難しい事ではあるが、アメリカの曖昧ではあるが医師に決定権がゆだねられている自由度の高い状態が今後日本の医療において、ただ生かすだけの、考え方によっては拷問に等しい可能性のある医療を受ける患者さんを無くすための参考になり得るものと思った。

アメリカ特有の制度としてChaplainという職業について学んだが、この点は宗教観の違いや国民性を考えると日本人にはかなり不向きな制度であることが日本に導入されてない大きな理由だろう。しかしアメリカではその制度に助けられている患者さんも多く非常に重要な役割を担っていた。Chaplainという職業は宗教を基礎に活動している訳ではないとのことであったが、実際のところは終末期の患者を精神的にサポートしようとしたならば、宗教観が合致する患者とChaplainの関係がベストであるのは間違いないであろう。つまり宗教的視点をもとに活動している訳ではないとは言え、終末期の患者さんの精神的活動を尊重するならば異教徒としてChaplainがその患者さんの人生に干渉する事は逆効果になり得るといったところであった。日本では圧倒的に文化的背景が異なるためChaplainを導入するというよりは宗教観から完全に切り離した心理カウンセラーが常駐していることが大切であると感じた。終末期医療にて学ぶべきところがあるとすればそのChaplainという独特な制度よりも院内に病室とは別に患者さんが落ち着けるようアロマや木造建築を採用した特別な部屋を用意していたところである。

suzuki02.jpg 尊厳死の講義では日本よりもこの分野ではかなり先をいっている印象をうけた。そもそも私たちが許されていない治療目的ではなく自殺目的の処方を手順をふみさえすれば医師がおこなえるという時点で患者の自己決定権が尊重され、そして選択の余地が与えられていると感じた。死に至る薬物の処方は私個人は直ちに日本でも採用すべき事ではないかと思っていただけに、それを実践している国でのディベートは大変有意義なものであった。ただ、シアトルにおいても尊厳死に関する法律は未だ完璧なものではなく、患者は自分自身の手で薬物を摂取しなければならないという身体の不自由な患者には厳しい制約が存在し、アメリカでも一部でしか採択されていない法案である事を知った。法案の成立しているシアトルのような都会でも人種間で文化的・宗教的な背景の差から致死薬の処方を望む割合に大きな差があり、現状では教育を受けた白人が希望・処方される割合がほとんどをしめているという事実が興味深かった。また、地域間でも患者が致死薬を手に入れられるかどうかは法律だけではない困難がある事を知った。例えばコミュニティ間のつながりが深い田舎では致死薬の処方はすべての人に理解されるものではないために、医師が処方したがらない事もあり、患者が致死薬を求めてシアトルにまでの長旅を強いられる事もあるというのは興味深い事実であった。尊厳死はアメリカでも全土で認められている訳ではなく、未だにごく限られた患者しか選択する事のできない医療的手段と言える。しかし、定められた手順をふむことでそれが可能な地域が実際に存在しその選択肢を患者が既に有していることは私たちの国との大きな違いであると感じた。私はいかなる患者も正常な判断力を有するならば尊厳死を選ぶ権利を有するべきと考えているだけに大きな刺激を受けた。そして既に法が存在するアメリカでさえまだその法には未熟さと明らかな改善の余地が含まれることを知り、尊厳死法を整備することがいかに難しいかを実感した。

大人に対する医療とは意思決定権の所在という観点から全く異なる性質を持つ小児の生命倫理に関しての講義も有意義であった。私は患者自身の決定をたとえ未成年であっても重視しなければならないという考えを持っており、それに関してアメリカの医師はどういうふうな考えを持っているのかが気になっていた。日本もアメリカも小児と大人は法律では歳により区別されてるが実際は早期から十分に判断力を有する小児が存在するのも事実で、どういうふうにその患者をこどもとして扱うのか大人として対応するのかを判断するのか質問したが、小児患者の主張だけではなくその家族の意見をまとめて治療に生かしていくという答えが返ってきた。つまり日本との大きな違いは無かった。しかし、輸血を望まない未成年が裁判所にて手術の日一日を成人として認めてもらえるよう行動を起こし、訴えが認められた事例があるなど、小児の発言が公的に認められる場合もあるのは日本との違いであると感じた。

ワシントン大学での一週間は日本の医療とシアトルでの医療を比較するいい機会になり、問題点や優れた点を知る事で生命倫理という観点での日本の医療を変える手がかりが少し見えたような気がした。先引率して頂いた古山先生をはじめ各先生方には一週間を通して濃密なスケジュールを組んで頂き、そして質問しやすい環境を設定して頂き非常に感謝しています。本当にありがとうございました。

 

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